Saturday 8 March 2008

砂の女の女づくり

いつもブログを書くときには、英語か日本語か、自然にしっくりくるほうで書こうと思い、たいていの場合は英語なのだけど(それでも辞書を使いながら時間かけて書くのです),今回は日本語。

下に先ほど投稿した「砂の女」の公演予告。裏にいろいろな思いはあって、実のところこのパフォーマンスをするのにはあまり気が進まないのだけど、まあ自分をポジティブに持っていこうとは思っていて、それで納得は行かないプロジェクトでもきっと何か学んだことはあるんだぞ、ってことで。

去年につくったソロ, Sixty-five feet down,実はこの「砂の女」を自分なりに追求しようと思って作った。この「女」,私から見れば何の魅力もない女で、はっきりいってムカつく。全然演じたいという思いにはならない。困った。そこで,彼女の内面をあれこれ想像するよりも,彼女のいる環境,砂丘のど真ん中のあり地獄のような穴蔵、を徹底的に追及してみようか、と思った。砂の感触とか手触り、足触りから始まって、砂の環境で生きていくというのはどんなことなのかなと思って、砂漠の遊牧民の生活を調べてみたりした。ある意味原始的な生活というのは、単に生活を維持するための作業だけで一日中かかって、余計なことをする暇はない。しかも毎日毎日その繰り返し。でもそれを疑問に思ったりもしない。ある意味、幸せ、か。

ちょうどその頃、休暇でモロッコはマラケシュに行った。マラケシュはまだ砂漠ではないけれど、乾燥していることに変わりはなく、宿の床、棚、どこもかしこも砂でザラザラ。脅威の砂。どこにでも行って、それを完璧に取り除くのは無理。

そうゆう自分の身体感覚を通して体験したことも助けになった。

直接作品作りには関係ないけれども、マラケシュの人々の様子も強烈な印象だった。生きることに必死。物を売ることに必死。客引きに必死。
クールに装うって,何だっけ?


思い出して来た。Suna no Onnaがここまで出来上がってくるまでにたどった道のり。自分なりに考えて、調べて。私はこうゆう作業が好き。

Suna no Onnaの作品全体に対して、私は納得いかないけれど、自分の役作りのために通ってきた道のりに悔いはない。唯一、悔いが残るとすれば、ほかのアーティストたちと自分の見解を分かち合えなかったことで、それが決定的にこの作品に欠けているものだと思う。これには立場の難しさも関係していて、私はパフォーマーでディレクターではないのです。私は自分の役柄や自分に関係する要素についての提案はできるけれども、決定権はないし、ましてや例えばコンピュータでアニメーション作っている人たちにまで作品についての見解を浸透させるのは無理。

って思うんだけど、実は無理じゃなかったのかなあ?もっとうまくやればできたのかなあ?
諦めてはいけない?

けど、私はディレクターではないのです。

どうもここでいつも突っかかる。ちぇ。

欲求不満のたまるプロジェクト。だけどきっと学んだことはある、と思いたい。



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